東京見聞録ー2 続き 借景東京ドーム
庭師は五十年後、百年後の情景を想定して樹木を植えると聞き及ぶが四百年後にこのような建造物が背景になるとは想像も出来ない事だったろう。左手の丘、小蘆山の彼方に東京ドームがある。江戸時代はその近辺まで庭園で今よりかなり大きかった。父が中屋敷建設のために徳川本家から下賜されたというが、江戸古地図によると、江戸城の外堀の外側で小石川沼がありあまり開発された場所では無かったようなので、庭園を造るために莫大な費用が必要だったのではないだろうか。
「得仁堂」
造成工事が始まった頃生まれた徳川(水戸)光圀は、この工事の進捗に重ね合わせるように成長した。少年時代は町で刀を振り回したり、吉原遊郭に通うなど不良であったらしい。しかし18歳の時史記「伯夷列伝」を読み感銘を受け、「伯夷、叔斉」の木像を安置した「得仁堂」を建て、以後学問に精をだしたという。こうして好奇心の強い学者肌のお殿様に成長した光圀には様々の逸話が残っている。
日本の歴史上で光圀が初めて食べたとされるもの。ラーメン、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆など。
さらに老いては「気骨のある天下のご意見番」のような老人だった。5代将軍綱吉の「生類憐みの令」を無視して牛肉、豚肉、羊肉を食べていた。また、野犬を50匹捕えてその皮を綱吉に献上したこともある。犬を蹴とばしただけで打ち首、獄門といわれた悪法による庶民の窮状を見かねた光圀が将軍様を諌めた行為であつたと思われる。
このようなことから、自身の身内にも厳しく教育したのかもしれない。
「稲田」 庭園の中に田圃があるのはここだけでしょうと紹介されているほど珍しい。
伝えるところによれば、長男の嫁に農民の苦労を教えようとして光圀が作らせた。今では文京区の小学生が田植え、稲刈りをして、今も人を育てる立派な研修施設となっている。もしどこかに給食費を払わないママさんがいると知ったらなんと思うだろうか。
あれこれ考えながら歩いていると固い話になってしまつた。足元には今も昔も変わらないであろう落ち葉が息づいていました。
このような特異な性格を持つ庭園であるのは、儒学の影響でしょうか。
向こうから二人連れが歩いて来ましたが甘い雰囲気にはなりませんでした。
ともあれ憩いの場、癒しの場として未来に続いて欲しいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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